2014年01月29日

【北斗~何所に行ったとネ~】

【大宮アルディージャ―に移籍】

DF・中村北斗(28)の完全移籍での加入このクラブには、後輩の渡邉大剛が移籍している。
「V・VARENに来るのではなかったのか~V・VARENで活躍する姿を見たかった~」残念
アルディージャ―で試合に出れなかったら後期・期間付き限定でV・VARENこんかね~活躍する姿を見たかった~
まだ本調子ではなかとね~「も~28やけん長崎に帰ってきたらよかとじゃなかね」
12年に右膝半月板損傷の重傷を負って以降、リーグ戦での出場はないが復調を見せていた。

北斗は「自分の特長であるガンガン強気に仕掛けるプレーで、チームの勝利に貢献できるように頑張ります」とコメントした。

中村は国見高から04年に当時J2のアビスパ福岡に加入し、09年からはFC東京に移籍。

通算ではJ1が79試合5得点、J2が99試合7得点。

   


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2014年01月20日

【伝説の名将小嶺】


【小嶺魂】小嶺忠敏総監督(68)は、長崎・国見を戦後最多6度の選手権優勝に導いた。

 13年度の代表、長崎総合科学大付を率いる

68年に赴任した母校の島原商時代が原点だ。部員13人からの指導者人生のスタートだったが、「鬼」と呼ばれた厳しい指導で古豪復活を遂げた。
 84年の赴任当時の弱小国見を情熱的な指導と革命的な戦術で常勝軍団に鍛えあげた、まさに「聖地伝説の名将」だ。
 
 「こくみ」と呼び間違えられるほど無名の国見を、84年の赴任当時から心血を注ぎ常勝軍団にした。私財を投じて遠征用マイクロバスを購入、病院を借り上げて選手寮を確保した。
 当時は斬新だった3-5-2のシステムで、ロングスローの多用や相手の布陣に合わせポジションチェンジする「カメレオン戦法」
 胴上げされた監督の100キロの巨体が高々と宙を舞う。血のにじむ努力が報われ、男泣きした。
「先輩が歴史をつくってくれたおかげで、後輩も国立行きが夢じゃない意識があった」(小嶺総監督)。初Vを礎に伝統が築かれていった。
88年1月8日、5万5000人で埋まった国立競技場の決勝。

小嶺総監督は「監督をして20年。やっとここまで来たかという思いだった」と、87年度の初優勝を振り返る。
 【「小嶺魂」】 【恩師・小嶺忠敏監督の教えが、今も平山の胸には刻まれる】
抜てきされた1年時、国見は強烈なフィジカルを武器に日本一に輝いた。その決勝後のロッカールーム。喜びを爆発させる3年生たちがいた。小嶺監督の怒号が飛んだ。
「ちゃらちゃらするな! これが人生のゴールじゃないんだ。通過点なんだからうぬぼれるな」

 365日練習漬けで、試合数は公式戦を含め年間400。遠征では朝食前の試合を「モーニング」と呼ぶ、1日最大6戦。00年度VメンバーのFW大久保(現川崎F)も「血ヘドを吐くようなきつさに逃げそうだった」という。
 全国から勝ち上がった猛者たちは、「ししゃも」と呼ばれる試験がある。
1キロを3分30秒のペースでインターバル走10本。
これをクリアできなければ、メンバーには入れない。走るのが苦手な選手には、声をかけて励ます。
ときには後ろから押して助けることもあった。

 負けたときの帰路も厳しいトレーニングが待ち受けた。2年時は決勝で涙をのむと、試合をこなしながら長崎へ。大会の疲れを残した試合は当然勝てない。「300メートルダッシュをずっと続ける。坂道があれば坂道ダッシュ。あまりにもきつくて、もうダメだって何度も思った。それが嫌だから選手権でがんばれた」。馬車馬のように走らされた3年間だった。
『国立の先にも後にも、過酷な練習が国見の伝統だ』
プロ入り後も国立とは抜群の相性を誇るが、その原点は全国選手権にある。国立は通過点-。

 『一方、卒業生に「モルモットにしてすまなかった」と謝るほどのスパルタ指導で鍛えた』 
「しごきだ、暴力だと、騒がれれる時代強くすることは出来ない。強くするためには多少のしごきは・・・」
作り笑いをしながら指導する小嶺総監督」。

「チャレンジ精神を忘れたら終わり」がポリシー。
 
 12年度は初出場の長崎総合科学大付属校を16強に導いた。
 若い指導者が次々と出てくるが、ともに闘志は衰えることがない。今大会、総監督として長崎総合科学大付を率いた小嶺氏は「まだまだ。これからですよ」と来季を見据えた。
【国立競技場蹴章】
百戦錬磨の経験を武器に、最後の夢舞台を目指して再び旋風を巻き起こせるのか?情熱のたまものだったが
 
 今回の選手権は、小嶺総監督が「あこがれの聖地、夢の場所」という現在の国立を目指す最後の大会となったが満足できる試合だろうか。
「選手権の国立最後は寂しい。でも時代はかわって先に進んでいる。青春をかけるから、見ている人を引きつけるんだと思う。そういう選手がたくさん出てきてくれば、国立は高校サッカーでも特別な場所であり続けると思う」


 ◆小嶺忠敏(こみね・ただとし)1945年(昭20)6月24日、長崎県南島原市生まれ。島原商でサッカーを始める。大商大卒業後の68年、赴任先島原商監督に就任。84年国見に異動し06年度まで21年連続で選手権に導く。06年3月国見校長を定年退職後も、総監督として指導も07年1月に総監督を辞す。選手権の監督通算勝利数(首都圏開催の76度以降)は1位の73勝(島原商8、国見65)。育てたJリーガーは東京FW平山やDF徳永ら30人以上。元J2長崎社長で現在は長崎総合科学大教授、長崎県協会会長。

  


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2014年01月19日

【怪物・平山の原点】



【国見FW平山相太「国立男」】

 こんなにも国立に愛された高校生はいただろうか。国立デビューとなった1年の準決勝・鹿児島実戦で、いきなりゴールを奪った。
 「国立男」の序章は、高校サッカーだった。長崎・国見高出身の東京FW平山相太(28)は、国立競技場で怪物と呼ばれた。3年連続で聖地に立ち、史上最多の7ゴールを決めた。
 国立デビューとなった1年の準決勝・鹿児島実戦で、いきなりゴールを奪った。
2年、3年と2年連続で得点王に輝き、国立で決めた数は通算7得点と、高校サッカー史上1位。
 国立が生み出した「怪物」と呼ばれた。
 190センチの巨体から繰り出すゴールは、ダイナミック。全国から勝ち上がった猛者たちを蹴散らした。「ししゃも」と呼ばれる試験がある。1キロを3分30秒のペースでインターバル走10本。
これをクリアできなければ、メンバーには入れない。走るのが苦手な選手には、声をかけて励ます。ときには後ろから押して助けることもあった。

 負けたときの帰路も厳しいトレーニングが待ち受けた。2年時は決勝で涙をのむと、試合をこなしながら長崎へ。大会の疲れを残した試合は当然勝てない。「300メートルダッシュをずっと続ける。坂道があれば坂道ダッシュ。あまりにもきつくて、もうダメだって何度も思った。それが嫌だから選手権でがんばれた」。馬車馬のように走らされた3年間だった。
『国立の先にも後にも、過酷な練習が国見の伝統だ』
プロ入り後も国立とは抜群の相性を誇るが、その原点は全国選手権にある。国立は通過点-。

【恩師・小嶺忠敏監督の教えが、今も平山の胸には刻まれる】
抜てきされた1年時、国見は強烈なフィジカルを武器に日本一に輝いた。その決勝後のロッカールーム。喜びを爆発させる3年生たちがいた。小嶺監督の怒号が飛んだ。
「ちゃらちゃらするな! これが人生のゴールじゃないんだ。通過点なんだからうぬぼれるな」

 日本一になってもしかられたのは、16歳の平山にとっては驚きだった。

 プロ入り後も国立との縁は続いて、通算24得点。「国立男」と言われる。
 「しごきだ、暴力だ、騒がれれば強くすることは出来ない。強くするためには多少のしごきは・・・」
作り笑いをしながら指導する小嶺総監督」。「チャレンジ精神を忘れたら終わり」がポリシー。
 「選手権の国立最後は寂しい。でも時代はかわって先に進んでいる。青春をかけるから、見ている人を引きつけるんだと思う。そういう選手がたくさん出てきてくれば、国立は高校サッカーでも特別な場所であり続けると思う」
【「小嶺魂」】
「こくみ」と呼び間違えられるほど無名の国見を、84年の赴任当時から心血を注ぎ常勝軍団にした。
私財を投じて遠征用マイクロバスを購入、病院を借り上げて選手寮を確保した。

『一方、卒業生に「モルモットにしてすまなかった」と謝るほどのスパルタ指導で鍛えた』

 ◆平山相太(ひらやま・そうた)1985年(昭60)6月6日、北九州市生まれ。田原小2年でサッカーを始める。国見高2、3年時に全国選手権史上初の2年連続で得点王。04年に筑波大進学。ワールドユースでは03年に8強(2得点)、05年に16強(1得点)。04年アテネ五輪出場。国際Aマッチ4試合3得点。05年8月からオランダリーグ・ヘラクレスでプレーし32試合8得点。06年9月から東京でプレーしJ1通算132試合25得点。190センチ、85キロ。血のにじむ努力が報われ、男泣きした。「先輩が歴史をつくってくれたおかげで、後輩も国立行きが夢じゃない意識があった」(小嶺総監督)。初Vを礎に伝統が築かれていった。


  


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2014年01月18日

【Jリーグチェアマン退任、就任】


次期Jリーグチェアマンに村井氏満氏(54)
 5代目のチェアマンとなる同氏は埼玉県出身。外部からの抜てきは初 、リクルートで人事担当執行役員を務めた経験を持ち、2008年7月からJリーグ理事を務めた。

「Jリーグは大きな転換点にあると思っている。命を賭してでもお受けしようと思った」と引き締まった表情で抱負を述べた。
 Jリーグは今季J3を新設し、来年は集客増などを目的にJ1に2ステージ制とポストシーズンを導入する。「観客が徐々に減少傾向にある。若い人や家族連れをどう呼んでこられるかが大きな課題」と現状の問題点を挙げた。

 中野幸夫専務理事(58)は留任し、空席だった常務理事には大河正明管理統括本部長(55)と中西大介競技・事業統括本部長(48)の両理事が昇格することが分かった。現在の管理統括と競技・事業統括の2本部制から事業部門を独立させ、3本部制に組織改編する。

有森、小宮山両氏が新理事 1月末のJリーグ役員改選

1月末に改選するJリーグの新理事に、女子マラソン五輪メダリストの有森裕子氏(47)、投手としてプロ野球ロッテや米大リーグで活躍した小宮山悟氏(48)が就任する
新チェアマン、新理事は31日の理事会を経て正式決定する。

 大東和美チェアマン(65)は2期目の満了を待たずに退任「人材育成やアジア戦略というキーワードを考慮すると、これ以上の人材はいない」と後任に期待した。
Jリーグは開幕後の3月が役員改選期だったが、新シーズンのスタート直後にトップが交代するのは問題があるとして改選を前倒しした。
元ラグビーフットボール選手、指導者。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)第4代目理事長(Jリーグチェアマン)、日本サッカー協会副会長。
 
 初代の川淵三郎・現日本サッカー協会最高顧問(77)を除き、2代目以降のチェアマンはJリーグクラブの社長経験者から選ばれており、外部からの抜てきは初めて。

  


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2014年01月17日

【国立競技場蹴章・古沼、小嶺】

【高校サッカー選手権】

 『高校サッカーの「伝説・名将」』
古沼貞雄氏(74)元帝京高監督  高校サッカーのレベルを上げるために全国行脚。

 矢板中央と帝京長岡のアドバイザーも務める今年は「1、2年生が多くて楽しみ。国立は最後だけど、今度は埼玉(スタジアム)で小嶺さんと戦うよ」と話した。
 
高校サッカー人気を不動にした。宮内聡や前田治を輩出

小嶺忠敏氏(68)元国見高監督
今大会、総監督として長崎総合科学大付を率いた「まだまだ。これからですよ」と来季を見据えた。

三浦淳宏や大久保嘉人、平山相太を率いて頂点に立った。

ともに戦後最多6度の優勝を誇る名将は、試合前にばったり出会い、2人が、スタンドに並んで最後の国立決勝戦を観戦した。

古沼氏が、ご一緒にと誘った。「一緒に試合を見るのは初めて。国立も最後だしね」と同氏は話した。
小嶺氏は「いろいろな歴史があるから、国立が最後なのは寂しいですね」。
古沼氏も「昭和は遠くになりにけり、ってね」と話した。
 意外なことに両チームの国立対決は1回もないと言うが、帝京・島原商業同時優勝はある。
 若い指導者が次々と出てくるが、ともに闘志は衰えることがない。

  


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2014年01月01日

【3年間何を教えてくれたの】

【サッカー選手権】1回戦 浦和・駒場
非常に腹立たしい試合だつた。涙、涙、涙、icon08怒り怒り怒り

【長崎総合】

シンプルにシンプルにクロスで前へ前への攻撃、何度も何度も同じパタン攻撃だった。
相手選手につききれずフリーにさせている。体の 寄せが甘いドリブル攻撃がができない。
「生徒がかわいそう3年間そんなもんしか教わらかったのか」

名将、名将騒がれ総監督総監督呼ばれ、あの程度の戦術しか指導できない
187小嶺ア~ア~
個人の個性を生かした指導・・・?
小嶺さんから強くしてもらうため小嶺さんについてきたのでは、
365日朝練昼、夜遅くま練習してきて・・・
小沼さんの指導よりも劣るな~小沼さんの行脚指導に劣るな

【小嶺さんいつかはJリーグで指導したい】
冗談じゃないヨ~しゃしゃり出てV・VAREN邪魔しないでね~  


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2014年01月01日

お年賀


  


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